秋元家の人々
5世 平八 秋元洒汀

平成11年1月23日オープン・平成11年2月10日更新

慈愛と雅に生きた秋元洒汀
 平成7年12月1日、流山が生んだ女流画家、故秋元松子の養女秋元由美子さんから、一茶双樹記念館前にある遺産の内、秋元松子画伯の絵画140点と、宅地1146.27平方メートル(347.35坪)、アトリエ(トタン葺・一部二階建)が流山市に寄附された。
 秋元松子の父である5世秋元平八(=秋元洒汀)は、みりん醸造家秋元家の一族に生まれ、天晴みりんの総発売元の外、醤油醸造業を営み、秋元三左衛門(天晴みりん醸造元)や堀切紋次郎(万上みりん醸造元)と並ぶ流山の富豪家であった。しかも、小林一茶の親しい俳友であり、パトロンであった秋元双樹の血統を受け継いでおり、生れながらの慈と雅趣に活きた人であったと言えるかも知れない。
 秋元洒汀は明治2年(1869)1月20日、5世秋元平八として流山村の宿に生まれ、幼名を半之助と称した。 秋元半之助は15歳の時、二松学舎に入学し、主に漢学を学んだが、早くも「空一」或は「東汀」と言う雅号で漢詩を書くようになっていた。そして、明治20年(1887)に東京専門学校(現=早稲田大学)政治経済科に入学した。
 この頃の親しい友人に坪谷善四郎と言う文学青年がいたが、彼は「水哉」と言う雅号で、既に俳句の道にいそしんでいた。
 秋元半之助は、流山の加村で伯父の秋元治三郎(俳号=鶴令。旧派俳諧の宗匠)が活躍していたこともあり、幼少の頃から俳句に親しんでいた。そんな下地があったためか、秋元半之助は友人坪谷水哉の影響を素直に受け入れ、「秋元洒汀」と言う俳号で俳句活動に手を染めていった。
 明治23年(1890)7月、半之助は21歳の時、東京専門学校を卒業し、家業に専従するため流山に帰郷した。その3年後、24歳の時、埼玉県南埼玉郡八幡村の豪農であった豊田寅一郎の長女と結婚した。


 

俳句結社「秋声会」との出会い
 明治28年(1895)、秋元洒汀の文藻に大きな転機が訪れた。それは、当時有名な俳人だった角田竹冷が、硯友社の尾崎紅葉、巌谷小波、大野洒竹、森無黄、伊藤松宇、岡野知十といった当代きっての著名俳人と共に、俳句結社「秋声会」を発足させたことである。その機関誌である『秋の声』が刊行されるやいなや、秋元洒汀は喜び勇んでそれに参加し、足繁く東京通いを始めたのである。
 この「秋声会」は、幕末から続いていた従来の月並み俳句から脱皮した新派的な俳句を目指す会であった。しかし、当時の文芸運動では、正岡子規の革新俳句「日本派」が脚光を浴びていたのである。
 明治25年(1892)、俳句界の革新家であった正岡子規は東京帝国大学を中退して日本新聞社に入社するが、明治26年(1893)3月には『文界八つあたり』を書き、「俳句は文学である」との論陣を張って、革新運動を進めた。
 さらに、明治30年(1897)1月、故郷である松山で柳原極堂によって『ホトトギス』を創刊したが、一年後には東京に移って、高浜虚子が『ホトトギス』の編集発行を引き継いでいる。この『ホトトギス』によって、正岡子規の革新俳句は高浜虚子や河東碧梧桐に継承され、近代俳句の主流となっていったのである。


 

処女句集「胡沙笛」を出版
 秋元洒汀の姉「ひろ」は、編集関係の仕事をしていた市岡伝太と結婚し、東京市神田佐久間町に、白鳩社と言う出版社を設立した。
 明治34年(1901)12月、秋元洒汀はこの白鳩社から処女句集『コサフエ』(=胡沙笛)を出版した。
 この『コサフエ』は明治時代における最初の個人句集と言われており、装丁も紙質も良く、扉絵は寺崎広業(日本美術院メンバー)が描いた『梅の花枝を背景に、紫の袴をはいた女学生が本を読んでいる図』を使用し、さらに、一條成美、山中古洞らの色摺挿絵が随所に配され、この句集を一層引き立たせている。(寺崎広業が描いた扉絵の木版は、秋元由美子さんによって大切に保管されている。)
 『東京日日新聞』の評では、
  製本、印刷の美、俳句集としてはまず比類なきものたるべし、
  今、氏が俳句の上に就いてみるに優麗高雅、期道の宗たるを失わず云々。
とベタほめである。
 この「コサフエ」は読詩界に好評となり、翌明治35年(1902)には、早くも再版が出されたほどであった。

 
文学活動にも大きな足跡
 明治35年、かの島崎藤村や金子薫園、河井酔茗、水野葉舟、尾山柴舟らが『やまびこ』と言う雑誌を創刊した時、秋元洒汀もそのレギュラーに加わり、編集の仕事を受け持っている。(『平凡』第1号「僕の立場」より)
 また、その年の10月には、白鳩社より伝記小説『小野小町』を出版し、さらに明治37年(1904)には伝記小説『在五中将』を著わして、青春の淑女をいましめる鑑を示した。みりんの販売や醤油醸造のかたわら、艶麗な筆を揮った『小野小町』『在五中将』の二篇は秋元洒汀が文藻に富んでいたとはいえ、誠に貴重な著書であった。
 明治三七年には、『東京日日新聞』に『万歳』『悔悟』『負傷兵』『號外』『斥候兵』と言う短編小説が掲載されたが、味わいながら読んでみると、短編ながらも流麗な文章の中に人道主義があふれ、洒汀の人となりが良く現れている。


岡倉天心と日本美術院
 「日本美術こそ、我が民族の精華である」として明治画壇に登場した岡倉天心は、明治21年(1888)東京美術学校が開校して2年目の明治23年(1890)には校長に就任するが、明治24年(1891)には美術学校とは別に、「日本青年絵画協会」を組織して青年画家の養成にも力を入れ始めた。
 しかし、美術学校の内部では、古法を重んずる保守派、岡倉天心によって排斥された南画家、西洋から帰朝した洋画家たちによって、岡倉天心の革新画風を非難する風潮が渦巻き、校長追放運動が起っていた。明治31(1898)年3月29日、岡倉天心は意を決して校長を辞任した。
 このようにして、東京美術学校長の職を追われた天心だったが、彼の周囲には共に美術学校を辞めた一七名(橋本雅邦、川崎千虎、六角紫水、後藤貞行、剣持忠四郎、下村観山、新納忠之介、関保之助、寺崎広業、小堀鞆音、西郷孤月、横山大観、岡部覚弥、桜井正次、山田敬忠、桜岡三四郎、菱田春草ら)の人材が取り巻いていたため、美術学校長在任中から構想を抱いていた、美術学校の大学院とも言うべき「日本美術院」の創設に全力をあげて邁進した。そして、明治31年10月15日、歴史的な開院式を挙げたのである。
 岡倉天心の画法は、従来の日本画と異なり、輪郭線をなくし、彩色によって空気感や事物などを表現しようとするものであった。つまり、西洋画の技法を取り入れ、印象派的な技法をもって、日本画を革新しようとしたのである。しかし、没線主彩の作品は世間に受け入れられず、何時の間にか「朦朧体」と呼ばれるようになり、彼らを「朦朧派」と蔑称したり、さらには「化け物絵」と中傷するなど、日本美術院の屋台骨が揺らぐようになってしまった。


日本美術院、五浦へ都落ち
 明治39年(1906)11月、日本美術院は五浦(現=茨城県北茨城市)に移転した。理由として彼らの絵が世間に受け入れられなかったことや、世俗を離れて「絵画」に専念するためなどが揚げられる。地理的条件では、五浦に岡倉天心の別荘があったことによるものである。
 岡倉天心に従い五浦に移住した画家は、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の僅か四名である。その生活は困難を極めていた。日本美術院が掲げた理想と現実の落差は余りにも大きく、日本美術院は早くも落日を迎えたような景観を見せていたのである。
 しかし、この五浦時代はドン底生活の苦難にもめげず、また「朦朧派」などの罵声にも屈せず、岡倉天心を中心にして研究に励み、各々が自己の芸術を伸ばして秀逸な作品を生み出しているのである。後年の評価ではあるが、五浦時代は日本の美術史上、重要な意義を持っていたのである。


秋元洒汀と五浦画人との親交
 秋元洒汀と五浦画人たちとの交流は、秋元洒汀の処女句集『コサフエ』の扉絵を描いた寺崎廣業が橋渡しをしたようである。(寺崎廣業は、岡倉天心に心酔していた時期があった。そんな関係からの紹介だろうか?)秋元洒汀も、没線主彩と言う新しい日本画に興味を覚えたことから、いつしか岡倉天心とも知りあっていたのであろう。
 日本美術院が五浦で苦難の生活を送っていた頃、秋元洒汀は寺崎廣業の一番弟子である鳥谷幡山とともに五浦を訪れた。 訪れてみて、聞きしにまさるドン底の生活苦に耐えて、懸命に研鑽している横山大観や下村観山、木村武山、菱田春草の清冽な姿に感銘し、「何としても、この人たちを日本画壇で活躍できるよう応援したい」と堅く心に誓い、早速その場で絵を注文した。
 しかも、秋元洒汀は、菱田春草が眼病に悩みながらも描画に取り組んでいる、その菱田春草の姿に、特に胸を打たれたようである。
 五浦訪問をきっかけとして、秋元洒汀と五浦画人との交友は、肉親さえ及ばぬ親密さを増していくのであるが、その様子は残された『書簡』のやりとりの中で、十二分に表れている。


菱田春草の眼病再発
 菱田春草は、明治40年(1907)に創立された文展(第1回)に出品した『賢首菩薩』が二等第三席を受賞し、日本美術院が五浦で研鑽していることを、世間に広く知らしめた。しかし、この頃から眼病の兆しがあり42年(1909)3月に水戸で行われた小展覧会に『林和靖』を出品した頃から病状が悪化していたため、上京して精密検査を受けた結果、眼病は慢性腎臓炎によるものと診断された。
 菱田春草の眼病を知った秋元洒汀は、菱田春草に対し、
  今日から、病気見舞として毎月二五円送らせて貰います。
  どうぞ一日も早く全快して下さることを祈ります。
と、激励の手紙を送ったのである。これに対し、菱田春草は毎々の病気見舞を深謝し、さらに
  東京豊多摩郡代々幡村代々木に移住し、河本博士の診療を受け、再起をはかっています。

(明治41年6月13日付『菱田春草書簡』)

と、応えている。
 秋元洒汀はとりわけ菱田春草が好きであった。失明の危機にも負けず、清潔で孤高を持した作品は常に清冽な美を極め、秋元洒汀の心を一層魅き付けていったのであろう。
 一方、岡倉天心は菱田春草の眼病再発を心痛し、外遊先のアメリカから秋元洒汀に宛て、
  拝啓 炎暑の続く頃ですが、御清適のこととお慶び申し上げます。
  さて、芸術界のことを常々お心に懸けて下さり〈御提醒の条〉大変感謝致しております。
  菱田(春草)氏の眼病が再発したと言うことで心を痛めており、早く良くなることをお祈り申し上げます。
  芸術家は芸術と称する大運命と闘うのさえ困難なのに、ましてや病魔の襲来、察し申し上げます。
  春草へは余り落胆なき様何かのついでにあなたからよく慰さめてやって下さい。
  私は来る八月一二日に鎌倉丸に乗船して帰国の途につく予定ですので、
  いずれお会いしたく思っております。

(明治44年7月12日付『岡倉天心書簡』)
と、切々たる書状を認めている。

秋元洒汀、菱田春草への愛惜
 菱田春草は、東京での治療が効を奏し、どうにか失明の危機を脱し、再び絵に精進していた。明治42年(1909)の第3回文展には六曲屏風一双の『落葉』を出品した。
 この作品は同展で受賞し、後に国の重要文化財に指定された。『俳諧人名字典』(高木蒼梧著)によれば、この作品は、秋元洒汀のために描いたものであると記述されている。
 つづく明治43年(1910)、第4回文展では、『黒き猫』(柏の幹で、眼をらんらんと輝かせた黒猫がうずくまっている図)を出品し、表現の優麗さをもって高い評価を受けた。(この絵も、後に国の重要文化財に指定されている。)蛇足ではあるが、『落葉』『黒き猫』2点は洒汀の手に入り、一時期は流山にあったのである。
 明治44年(1911)に入ると菱田春草は腎臓炎を再発し、併発症であった蛋白性網膜炎が悪化して視力を失った。さらに、不眠症が重なって重体に陥ったのである。秋元洒汀は、郷社赤城神社へ『赤城明神』の掛軸(前島密に揮毫を依頼したもの)を奉納して平癒祈願をしたりしたが、その甲斐もなく明治44年9月16日、38歳の若さでその才能を惜しまれながら、生涯を閉じたのであった。秋元洒汀は、菱田春草の追悼展覧会の幹事役を務めて盛会裡に終らせたが、菱田春草への追慕の念はそれだけにとどまらず、記念碑の建立費を全額支出したり、遺族に生活費を毎月送金するなどしていた。


菱田鉛治からの手紙
 菱田春草の死後、秋元洒汀のもとには、菱田千代(菱田春草の妻)を始め、菱田為吉(菱田春草の兄)や菱田唯蔵(菱田春草の弟)から、多数の懇ろな謝礼の書翰が送られて来ており、親交の深さを物語っているが、次に掲げる明治44年5月8日付けの菱田鉛治(菱田春草の父)、菱田為吉、山田台太郎(親戚)連名の『書翰』には目を見張らせられる。
  謹啓、初夏を迎えましたが、御清穆のこととお慶び申し上げます。
  過日は、非常なお世話とご尽力をもって、故春草の追悼展覧会を催して頂き、
  加えて多大の金子を御恵与下さいました。
  おかげ様で遺族の養育の目途もつき、ありがたく感謝しております。
  定めし地下に眠る春草も喜び安心していることと思います。
  とりあえず簡単な手紙ですがお礼を申し上げます。 

敬具
    追伸
  行き届かぬ寡婦(春草の妻)のことですが、子供の教育について心配しております。
  しかし、何分にも(私たちが)遠方のため注意もできにくいので、
  今後とも遺族をお見捨てにならないで、お心添え下さるようひとえにお願い申し上げます。
  また、先日は私へまでも春草の画集を下さり、ありがたく感謝しております。
  画集は今回の記念として、大切に永久に保存致します。
  ついでながら画集のお礼を申し上げます。

菱田鉛治
菱田為吉
山田台太郎

  秋元洒汀様
      侍史
 秋元洒汀の菱田春草に対する愛惜は、パトロンとか友情と言う言葉では表現できぬ深いものであったことがうかがえる。。菱田春草の逝去後、秋元洒汀は妻てる(=秋元弥生)と共に、お盆になると菱田春草の写真を仏前に飾り、自家の霊と共に回向し続けてきたと伝えられている。

 

俳句雑誌「平凡」を創刊
 明治42年(1909)7月10日、秋元洒汀は俳句研究会「平凡会」を流山で結成した。会員は、堀江吟山、高橋永楽、大塚格良、関根雨青、関根胡蘆、秋元淘綾、秋元虚受、秋元章光、中村抱花、森田柏堂、石井柳月、山崎松和、清水一笑、寺田美月、須賀丸藤、そして紅一点の秋元弥生の(秋元洒汀夫人)一七名だった。
 当時の句会は赤城倶楽部や光明院本堂などで行われていたが、機が熟すに従い、『平凡』と言う俳句雑誌を、明治44年1月1日に発刊した。
 『平凡』は地方俳誌としては実に豪華で、祝詞を伊藤松宇と服部耕雨が寄稿し、内藤鳴雪が「月は月花は花にて候ぞ」と祝句を寄せている。また、秋元弥生(秋元洒汀夫人)が『我輩は木蒐(みみずく)である』と言うユーモラスな散文と、「子供等が燻り絵かざす火鉢哉」などの俳句をもって、誌面に花を添えている。
 さらに、特別会員の顔ぶれを見ると、巌谷小波、伊藤松宇、服部耕雨、萩原蘿月、星野麥人、戸川残花、沼波瓊音、大谷句佛、大野洒竹、大須賀乙宇、岡野知十、岡本松濱、川村黄雨、河東碧梧桐、高浜虚子、瀧川愚佛、坪谷水哉、角田竹冷、内藤鳴雪、中川四明、中村不折、中内蝶二、夏目漱石、鵜澤四丁、松瀬青々、幸田露伴、国府犀東、佐藤紅緑、坂元四万太、佐々醒雪、水落露石、森無黄(以上イロハ順)と言う、当時の日本を代表する俳文人三二名が名を揃えている。この様なメンバーが揃ったのは、秋元洒汀が「秋声会」に所属していたこと。秋元虚受と松本翠影が『ホトトギス』に入集していたことが考えられるが、今更ながら、「秋元洒汀は『俳文学大辞典』や『俳諧人名辞典』、『現代俳人鈔』に紹介文が載せられる程の俳文人であったのか」と思い知らされた。 しかし、流山俳句を有名にした『平凡会』も日本派と秋声会の対立や、秋元洒汀が愛惜していた菱田春草の病状悪化によるショックもあって、残念ながら二年半、俳誌『平凡』は4号で幕を閉じ(第5号は未刊であるが、原稿が残されている。)、その翌月からは『ツボミ』として再発足された。

流山文化の彗星、洒汀の生涯
 文明開化の明治時代、デモクラシーの大正時代に醸造家として財をなす一方、風流雅懐を好んで文学美術に造詣を深め、世評高き文人墨客たちと交遊し、流山文化に彗星として現れ、貢献した秋元洒汀夫妻は、後世の私たちに多くの、貴重な精神的財産を残していった。
 また、水運が陸運に変わり、流山が交通不便の地になることをいち早く察した秋元洒汀は、軽便鉄道敷設の発起人代表としても挺身し、流山鉄道の実現を図った功績にも大きいものがある。
 秋元洒汀の文化的継承は、故秋元松子とその夫の故笹岡了一に受け継がれ、洋画壇の重鎮として活躍されたことで開花した。そして、その後継者として女流画家秋元由美子さんが、真摯な姿で今日に受け継いでいる。
 現在、市に寄附された敷地の一隅には、秋元洒汀が奈良法隆寺の百曼陀羅宝塔を模して建造したと伝えられる、古雅優美な堂宇が秋元洒汀の生涯を物語るように、静寂としてたたずんでいる。