秋元家の人々
10代目三左衛門 秋元良尚

平成11年1月23日オープン・平成11年2月10日更新

雅(みやび)に卓越した秋元良尚
 秋元良尚(淘綾)は明治23年5月12日、10代目三左衛門として生れた。父(9代目三左衛門)が病弱であったため、姉(寿わ子)の夫であった秋元梧樓(虚受)が家業のみりん醸造業を営むこととなり、秋元良尚は姉夫婦とともに秋元家の長男として育った。
 明治36年(1903)、地元の流山小学校を卒業後、開成中学を経て慶応義塾大学の文科に学んでいたが、不幸にして学業半ばで厳父が逝去すると流山に帰り、義兄秋元梧樓と共に家業を営むこととなった。
 秋元良尚は5代目三左衛門(双樹)の直系者であり、雅趣の血が受け継がれていたのだろうか、その上近親者として、「見世の家」と呼ばれていた5世秋元平八(洒汀)や秋元梧樓がいたが、彼らは事業家と同時に、雅才に長けていた。雅才は秋元家の家風なのかも知れないが、こうした環境の中で、誰に教わった訳でもなく、幼少時から俳諧を趣味として、「淘綾」の俳号で俳句を詠んでいた。 しかも、同居の義兄秋元梧樓は、「ホトトギス」俳句会の日本派に所属しており、秋元淘綾もいつしか革新俳句に魅せられるようになっていった。


「平凡会」のホープ・秋元淘綾
 明治42年7月1日、秋元洒汀を主軸にした流山俳人が結集し、「平凡会」と言う俳句の会が結成され、中央俳壇から注目された。秋元淘綾も弱冠19歳で参加し、新鮮な句を作詠して活躍した。
 明治44年1月1日、「平凡会」待望の俳句雑誌『平凡』が発刊されたが、その『発刊の辞』は、弱冠21歳の秋元淘綾が執筆した。その内容は、中央俳壇の有力メンバーであった伊藤松宇、服部耕雨の祝詞、内藤鳴雪の祝句と並べ、「時代の推移、趣味の向上は、徒らに旧態を墨守するを許さず、今後の趨勢に鑑み、相互の意思を疎通して真面目にこの道を勧奨するよう講じたい。」と、所信を堂々と述べている。
 また、冬雑詠には、「下総秋元淘綾」と名乗り、
  朝潮や鯨に遠き壹岐對馬
  池の隈水仙の花ひょろり哉
  街道の首無地藏や村時雨
三首が掲載されたが、清新さが匂う、秋元淘綾ならではの作風である。


流山俳壇「ツボミ」の幹事役
 「平凡会」が俳壇の中心であった「日本派」と「秋声会」との内部軋轢によって閉会してしまうと、直ちに義兄の秋元梧樓と松本翠影が中心となって新俳句会「ツボミ」が発足したが、秋元淘綾はその幹事役として活躍した。
 明治時代から大正時代をとおして、流山の俳壇が全国的に有名になったのは、この「ツボミ」の時である。
 「ツボミ」は僅か11名の会員であったが、選者には内藤鳴雪、下村為山など9名のメンバーが名を連ね、毎号ごとに担当した。また、各号には「ホトトギス」派の有名俳人の寸言や、各地の句会報が誌面を飾るなど、バラエティに富んだものであった。
 しかし、「ツボミ」の中心人物だった秋元梧樓は、『明治百俳家短冊帖』や『三愚集』の編纂に勢力を傾注していたため、松本翠影と秋元淘綾と言う20代の若手が、ベテラン会員や中央俳壇人との中にあって、会をまとめ、流山俳句会「ツボミ」の隆盛に盡力していたのである。
 この『ツボミ』は、大正2年(1913)3月に主宰者であった秋元梧樓が土浦に分家することとなり、さらに、松本翠影が大正3年(1914)に東京に移転することになって、惜しまれながら解散した。
 秋元淘綾が情熱を傾けたツボミ時代、彼は『俳諧名所しるべ』『俳諧商売往来』などを発刊して定評を得ていた。特に注目するのは、鈴木烏川が俳画を描き、流麗な淘綾の手書きによる『句集』である。この『句集』は故人の遺品として、未亡人である秋元君代さんが生前を偲んで、今も大切に保存している。


秋元淘綾と芸術家たち
 流山界隈では「見世の家」と呼ばれていた秋元洒汀と俳壇「秋声会」の会員や美術院の美術家たちとの雅友ぶりが有名であったが、秋元本家でも秋元梧樓と秋元淘綾の二人が、美術・芸能といった趣味に造詣が深く、当然のことながら、文人墨客の往来は激しく、枚挙にいとまがない程であった。
 特に秋元淘綾は、寺崎広業、横山大観、長沢湲水、中村不折、松本楓湖、鳥谷幡山、鈴木烏川、小川芋銭などの軸画作品を蒐集していたが、これらの作品は、これを賛辞した人に与えたり、慶祝品として、惜し気もなく出してしまう気前の良さがあり、蒐集目録があっても作品が残らないと言う有様であった。このような一面が秋元淘綾の資性や人柄を物語っており、家人にとっては現在も語り草になっているのである。


写真の会「木山会」を創設
 秋元良尚は若年の頃(明治34年と『町報ながれやま』は伝えている。)、趣味で写真撮影を始めた。当時の写真機は三脚付の暗函式で大掛かりなものであったが、それを担いでは各地を撮影して歩いていた。そして、2年ばかり過ぎた頃、八木村芝崎(現=流山市芝崎)の吉野誠と写真を通じて懇ろになった。
 さらに同好の志を募集し、仲間が数名になった頃、八木村の「木」と、流山町の「山」をとって「木山会」と言う写真の会を結成した。
 「木山会」では事業活動の一端として、当時の流山を紹介した『流山八景』(『赤城山の秋月』、『高田の夕照』、『東福寺の晩鐘』、『馬場の夜雨』、『平井の暮雪』、『東谷の晴嵐』、『江戸川の歸帆』、『沖田の落雁』)などの印画(=写真)を会員で作り、自盛堂の石版で絵葉書に仕上げ、これを流山の土産物とした。
 「木山会」が段々と盛大になってくると、「木山会」は「東都写真会」に加入し、東京の写真展にも出品するようになる。当時有名だった小西六や秋山徹輔の審査を受け、美事入賞するなど、なかなかの活躍ぶりであった。
 また、秋元良尚は一六ミリや九.五ミリの映画撮影にも趣味を広めたが、秋元良尚が撮影したものとして、16ミリフイルム4巻、9.5ミリフイルム六巻が残っている。趣味として撮影したフィルムではあるが、今となっては明治時代末期や大正時代の様子を知る貴重な資料であるため、流山市立博物館へ寄託されている。
 
銃猟の雄・秋元良尚の横顔
 
銃猟の雄・秋元良尚の横顔
 大正6年(1917)頃から昭和時代初期にかけては銃猟競技が盛んであったが、秋元良尚はこの銃猟にかけては名人級で、全国射撃大会で優勝する程の腕前であった。一時は、大日本聯合獵友会の会長を務めたこともあり、流山の飛地山(現=流山市役所付近一帯の小高い丘)にクレー射撃の練習場を作って、休日には練習に明け暮れ、一日中猟銃発射の音が響いていたと伝えられている。
 クレー射撃とは、射撃場の前方の半地下壕からクレー(瓦で作られた円形板の的)が空中に投げ出され、射撃台から狙い射つ競技である。鴨や鷭(ばん)が葦原から飛びたつ様子を想定したものであるが、発射する光景は見ていて実に爽快な感じがする。
 飛地山射撃場には西寄りに六つの射撃台があり、東方へ向かって射っていたが、銃を発射する度に、空薬莢があたりに散らばった。空薬莢は子供たちにとって良い玩具となったので、子供たちは射撃練習が終ると、先を競って薬莢を拾い集めていた。そんな光景が今でも甦って来る。
朝香宮と秋元良尚 この飛地山射撃場には、秋元良尚が猟友会の会長であった関係から、東久彌宮稔彦王や朝香宮鳩彦王、北白川宮永久王などの宮家がお忍びで来ていた、宮様一行は、秋元家まで馬で来て射撃の練習をしたり、宿泊して、日の出前後の江戸川の葦原で、鴨や鷭撃ちなどを楽しんでいたようである。流山での銃猟は宮家の他、当時の政財界人の恰好の交際の場としても使われていたようである。また、スポーツ振興にも役立っていた。
 飛地山射撃場で練習していた会員たちは、各地の大会に参加して好成績をあげ、特に秋元良尚は全国大会をはじめ各所で入賞する雄者ぶりで、毎回新聞を賑わすほどであった。
 明治時代以降の狩猟の歴史を紐解いてみると、明治21年(1888)宮内省に狩猟局が置かれ、明治24年(1891)には、我が国初めての狩猟雑誌『獵の友』が刊行され、大正7年(1918)には狩猟法が施行された。ここで注目すべき現象は、大正6年(1917)には12万人台であった狩猟人口が、翌大正7年には15万人台、さらに大正9年には10万人台を超える急激な増加である。恐らく、第一次世界大戦における好況の波がもたらしたものであろう。つまり、狩獵は一部の上層階級から解放され、一気に一般庶民のスポーツへと変貌したのである。


伝統築いた流山の盆栽
 盆栽芸術は、自然美を盆上に表現させて、これを室内で観賞する、日本で独自に創始された芸術作品と言われている。
 何事にも生半可なことが嫌いな秋元良尚は、盆栽についても造詣が深く、町内の愛好者と交流を図りながら、草樹の自然美を生かし、実生や山採り、接ぎ木、整枝なども自分で手がけていた。さらには鉢にも凝り、支那鉢などの逸品を揃えては培養し、作品ができるとそれを紫檀(したん)の地板にのせて床の間に飾り、主客を交えて観賞していた。
 昭和五年頃には、当時、任意団体だった「日本盆栽協会」に加入し、毎年開催される国風盆栽展に出品しては観賞者の賛辞を得ていた。そんなこともあり、秋元良尚は盆栽協会でも、その作品と人柄がかわれ、島津会長を補佐する副会長の役を勤めるようになった。
 しかし、戦時下に突入すると盆栽培養の気運は衰退し、国風展も閉鎖されるなど、盆栽協会は自然解散の状態に追い込まれた。
 だが、盆栽の性質上、一日たりとも培養を怠ることはできず、余暇をみつけては育成し、殺伐とした時世にもかかわらず、来訪する客人の静観した心を楽しませるべく、盆栽管理をつづけていた。
 戦後、経済の復興とともに、盆栽の培養熱が自然と高まってくると、流山でも秋元分家の谷口寿郎が音頭をとって「草樹会」が結成され、昭和30年には初の流山町文化祭に参加して20年振りの盆栽展示が行われた。
 現在、法人格の「日本盆栽協会流山支部」が結成され、毎年開催されている流山市文化祭では華麗な展示が行なわれ、観賞者の眼を楽しませているが、その遠因こそ、昭和初期の秋元良尚を中心とした、盆栽愛好者の丹精が今日の盆栽文化の興隆を支えてきたといえるであろう。

多芸万能に世間はビックリ
 昭和9年6月の新聞の切り抜きに、こんな記事が載っている。
   天晴味醂主 長唄放送
   三味線 赤坂芸妓
  放送協会の理事に祭り上げられた流山町天晴味醂の秋元三左衛門氏は、
  かねて御自慢の長唄(君の庭)を八月中に放送することとなり、
  お馴染の赤坂芸妓幸次の三味で出動準備中なりと
 秋元良尚の交友は広く、芸能人では、歌舞伎役者の尾上菊五郎や市川猿之助、新劇の沢田正二郎などがひいきであった。上京の折には、松本翠影の案内で観劇を楽しんだり、長唄の稽古を受けたりしたが、これらの芸人も、わざわざ流山まで出稽古に来るほどの仲であった。
 また、謡曲は流山出身の観世流の能楽師浅見真健が赤城クラブや光明院本堂に月例的に来町しては、商家の旦那衆に稽古をつけていたが、これも秋元良尚の肝煎りだった。
 多趣味をもって知る秋元良尚ではあるが、まさかと驚かされるのは「手品」の妙技を持っていたことである。名人とうたわれた天勝がわざわざ訪宅し、秋元良尚に手ほどきをしたこともあって、いつの間にか玄人はだしの腕前になっていた。宴会などでは隠し芸として披露しては交友の人達をアッと言わせていたと言う。秋元君代さんの話しでは、「今でも秋元良尚が使っていた手品道具が、秋元家に残っている。」とのことである。


織田幹雄来流。町のオリンピック大盛会
 『流山町報・第15号(昭和28年11月10日付)』の第2面には、「織田幹雄氏の来流を仰ぎ町オリンピック、盛会裡に終了」の見出しで、次のような記事が載っている。
  陸上競技の記録向上を目的とする町内小中六校の第三回体育大会は好天の一一月一日、
  南部中学校々庭で、新たにPTA連合会より寄贈された大会聖炎旗をへんぽんと飜しつつ開始された。
  この日は特にPTA連合協議会長秋元三左衛門氏の口ききで、本町に縁がある日立の秋元良夫氏の御盡力により、国際的陸の王者織田幹雄先生の臨場を仰ぎ終始熱心に望視され、最後に四種目にわたって模範演技を行い、尚、有意義なる講演をなされた。
 織田幹雄は、昭和3年(1928)アムステルダムで開催されたオリンピックで三段跳びに出場し、15メートル21を跳んで優勝した人物である。早稲田大学在学中の頃から秋元家とは懇親の仲となっており、しばしば来流しては、小学校の生徒や青年団員の指導を行っていた。
 また、織田幹雄の友人で金メダリストの南部良平も、秋元良尚の甥(秋元梧樓の子)の秋元良夫と親友だった縁で、やはり秋元本家とも親交があった。
 秋元良尚は文化にスポーツと多彩な趣味を生かして、明治・大正・昭和と3時代にわたって活躍されてきた姿は、まさしく雅趣壮麗な人生であり、流山文化の先達として何時までもその功績は賞賛されるべきであろう。